挫折せずに古典作品を読む方法とは?自分に酔うだけの読書に別れを告げよう

知識人や地位の高い人はこぞって「教養を深めるために古典作品を読もう」って言いますよね。

本を読むことの効果には、人それぞれ主張があります。

まず言いたいのは、わたしは古典作品を読まなければいけないという風潮に断固反対であるということ。
古典作品を否定するつもりはありませんが、知識を積み重ねていったものでないと、古典を読んでも意味がありません。

なぜ多くの人は「古典作品」を推奨するのでしょうか?




古典がわかる自分、どうよ?

ここでは「古典作品=読むのが難しい本」という前提でお話します。
古典作品のなかには、比較的読みやすい本もありますが、その多くは難しめです。

さて、古典作品をすすめる人の大半は自分が古典を読んでいることに酔いしれているだけです。

古典を読んでいれば、教養アピールもできますし、箔が付きます。
読書家として知られる先生方の多くは、知識人なので古典のことをよく知っています。
だからこそ、まわりの人も「おお、それなら読んでみるか」となるわけです。

しかし、非・知識人(もっといえば、自己顕示欲しかない人)がすすめる古典作品ほど怪しいものはありません。

「(こんな難しい本読んでるんだよね)」というのが、見え隠れします。

もちろん、信頼できない人がすすめる本に感化される人はいないでしょう。
でもなかには「こんな奴でも古典作品読んでるのか…自分も読まないとヤバいかな」と焦りに似た何かを感じる人もいます。

だからといって、焦って古典作品なんか読むべきではありません。
なぜでしょうか?

非・知識人の多くは古典作品を読む必要なし

実際、読書家で本まで書ける人と言うのは古典作品を難なく読める知識を持ち合わせています。

ですから、そういった人は古典作品が何たるかをよく知っています。

しかし「ちょっと読書が好き」ぐらいの人が、古典作品に手を出すと、ほぼ間違いなく撃沈します。

なぜ読書本を出せるような知識人が、古典作品をすすめられるのでしょうか?
それは「読書の積み重ね」があるからです。

知識人(わかりやすい例で言えば、出口治明氏や齋藤孝氏)はさまざまな本を読んだり、多くの知見に触れてきたからこそ、土台がしっかりしているのです。

だからこそ、古典作品を推奨できるのです。

しかし、そういったオススメの古典作品を何の予備知識なしで読むのは愚行でしかない。
土台をすっ飛ばして「とりあえず古典作品から読んでみよう…」なんていうのは、時間のムダでしかありません。

ではどうすればいいのか?
それは言うまでもなく、周辺知識を付けてから読むこと。

正直、骨が折れる作業ですし、イヤになるかもしれません。
しかし、急に古典作品に手を出して「ああ、古典ってやっぱり難しい。自分なんてこんなもんか」と挫折するよりはよっぽどマシです。

読書にも言えることですが、人には必ず”成功体験”がなくてはなりません。
つまり、「あ、これなら読めた」という感触です。

いわゆる入門書などから始めて、少しずつ成功体験を重ねていく。
古典作品を読むにはそういった積み重ねが必要です。

苦しくても、読み切る。その後に解説書を読むという方法も

本来であれば、最初に周辺知識を付けてから古典作品を読むのがスタンダードなやり方です。
しかし、作品によってはそうもいかない場合があります。

たとえば、多くの人の頭を悩ませるドストエフスキーの作品があります。
『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』などは、古典作品として高い評価を得ています。

しかし、どうでしょう。
読んだことがある人ならわかるかと思いますが、一般人には難解です。
これをいきなり「ちょっと読んでみるか」なんていって、手を出すと後悔するかもしれません。

ではどうすればいいか?
ドストエフスキーの例で言えば『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』を活用しましょう。

この本は、カラマーゾフの兄弟の解説がわかりやすく紹介されています。

とりあえず、無の状態から『カラマーゾフの兄弟』を読んでみて、読後に『謎とき〜』を読んでみる。
こうすることで、同じ読書体験が別の次元に引き上げられます。

苦しみながら古典作品を読み終えてみて、そのあとに解説書でスッキリする。
何も理解できなかった古典作品を、あとから補うイメージですね。

すべての古典作品に通用するやり方ではありませんが、解説書があるのであれば1つの方法として知っておくべきです。

ちなみに『カラマーゾフの兄弟』に限りませんが、海外の翻訳作品なら光文社古典新訳文庫がオススメ。

翻訳が非常にやさしくなっているので、挫折なしで読み通せるはずです。
新潮文庫で挫折した人は、ぜひ試してみてください。