「東野圭吾の魅力が分からないんです(泣)」

「本屋大賞受賞!」「映画化決定!」

人はどうして人気が出ると興味を失ってしまうのでしょうか。
自分の好きな作品が大衆化してしまうと、途端にイヤになってしまいます。
「映画化決定!」と表紙の帯に巻いてある本は買いませんし、書店の「映像化コーナー」にも足を踏み入れません。




ま、前から知ってたもん!

たとえば私の場合、辻仁成『サヨナライツカ』を中学生の時に読んでいました。
中学生というガキながら、この作品を読んで大量の涙を流したことは誰にも言えません。

時は流れ…2008年。
大きな事件が起こりました。それは『サヨナライツカ』が映画化されてしまったのです。
辻仁成という作家は有名ですし、べつに偉そうなことは言えません。
でもわたしとしては『サヨナライツカ』は大切にしたい作品で、誰かにオススメの本を聞かれたときにも密かにこの本を紹介していました。
そんな作品が「映画化」です。

この映画化をキッカケにして、わたしの中の「サヨナライツカ像」はもろくも崩れ去りました。
オススメの本を聞かれて映画化されている作品を紹介するほど恥ずかしい話はありません。

仮にサヨナライツカの話題になったとしましょう。
「サヨナライツカって面白いよね。映画観た?」

こう聞かれたらわたしはこう答えるでしょう。
「ああ、あれね。映画は観てないな。中学生のときに原作は読んだよ。」

どうでしょう。この卑屈さ。別にいつ読んだかなんて聞かれてないですし、だいたい今は映画の話をしています。
それなのに、まず原作の話をしたがる。ましてや「中学生のときすでに知ってたんだぜ、オレ」感を全面に押し出そうとする。
ヒドイもんです。たとえ映画を観ていても、わたしはきっとこう答えるでしょう。

「映画はイマイチだったなーやっぱり原作は超えられないよ」

自分は人とは違うんだ!という無意識の表明

初対面の人と会ったとき、相手が少しでも本に興味がありそうだった場合、大興奮します。
ただ、その興奮は長く続かないことがほとんどです。

「えー本好きなんだ!普段どんな本読むの?」

「んーそうだなあ…東野圭吾とか好きだよ!」

…この瞬間の劇的な興ざめ感。「あの興奮のひとときを返してくれ!」とはこのことです。

冷静に考えれば、誰が何の本を読もうと自由なんです。東野圭吾だろうと、伊坂幸太郎だろうと好きな作品を読んでもらってかまわないはずです。
それなのに、どうしてこうも興味を持てないのでしょうか。

これは結局「自分は他の人とは違うんだ」というオーラを出したい人間の本能。
そして、単純にろくでなし。人のことを下に見たい願望が思い切り開花している春の気配。

無名な作家・作品であればいいとも限らない

好きな本や作家を人に聞いたとき、わたしたちのような人種(勝手に一括り)はどんな答えが返ってくると喜ぶのでしょうか。
それはズバリ「興味の対象が同じもの」。

東野圭吾や伊坂幸太郎がダメだからといって、あまり知られていない作家や作品の話が心地良いかといえばそうでもありません。
反対に自分の知らない作品や作家の話をされると「自分の上をいかれてる感」をひしひしと感じてしまい、不安に駆られます。

結局ところ「相手よりも本のことを知っている自分」でいたいし「相手のほうが本のことを知っている状態」は避けたいのです。
理想とするのは「同じ好きな作家や作品について同じ温度で盛り上がる」ことにあります。
こんなわがままな願望は決して口にできません。密かに心に抱くだけ。

東野圭吾作品を読んだことがないくせにこの言い草。バチ当たりです。
どうりで部屋にゴキブリが出てくるわけです。

さて、チャールズ・ブコウスキーでも読もうかな。