こんにちは、アユム [ @kot_book ] です。
読書ブログを書いていると、毎日のように「次は何の本を読もうか?」と考えます。
本の選び方はたくさんありますが、そのひとつに「こんな本を読めたらかっこいいな」というものがあります。
自分の内面から沸き起こる「読みたい」という衝動ではなく、他の誰かから見られたときに「かっこよく思われたい」という動機です。
ひとことでいえば、見栄を張った本選びと言えます。
おそらく、多くの人に同じような欲求があるはずです。「こんな本を読んでる自分かっこいいよな」「電車の中で、この本読んでたらドヤ顔できそう」という不純な欲求が。
もちろん、これらの欲求・動機が全面的に悪いとはいえません。そうして手に取った本が、思ったより面白くて新しい発見になることがあるからです。
しかし、その不純な動機があるせいで、読みたくもない本を無理やり読む状態に陥っているのであれば改めなければいけません。
本の内容に対する興味は失われているのに、「周りからよく見られたい」という願望を叶えるためだけの読書が楽しいはずがないからです。
僕も、この罠にはこれまで何度も惑わされてきました。そして、それを遠ざけることなく、なあなあにしたままこれまで生きてきました。
わかりやすくいえば、見栄を張って難しそうな本を買ってしまい、結局読まずに終わるということを繰り返していたのです。
しかし、先日とある本を買ったことがキッカケで「もう、見栄を張って本を選ぶのはやめよう」ときっぱり決意することができました。
その本は『老人と海』です。この本はノーベル文学賞を受賞したアメリカの作家、ヘミングウェイの代表作でもあります。
おそらく、多くの人が見聞きしたことがある作品でしょう。
僕はこれまで、意識の片隅でずっと『老人と海』を読んでみたいと思ってきました。その動機の中には、「海外文学を読んでる自分」への自己陶酔が多分に含まれていたはずです。
そして先日、ついに紀伊國屋書店で購入することにしました。
読む前の僕は「これだけ有名な作品だし、きっとおもしろいに違いない」「なにか得るものがあるはずだ」と思っていました。
意気揚々と読み始めます。
が、読んでいる途中から少しずつ興味は失われていきました。
不思議なもので、どこをどう読んでも自分には何も響かないのです。「この本のどこを楽しめというのか?」という感じで、最終的には疑う気持ちしか起こらない始末。
そして、途中で読むのをやめてしまいました。
あれほど有名な作品なのに、なぜ自分には読めないのか?やっぱり、自分には文学を嗜む素養がないのではないか?
こんな感じで、読めない本にぶつかると自信を失います。
でもよく考えてみたんです。なんで、わざわざ無理をしてまで読む必要があるんだと?
もちろん、文学が好きな人、ひいては『老人と海』が好きな人からすれば「おまえには読む能力がないんだ」「背景を知らないから楽しめないんだ」という感じでしょう。
僕も『老人と海』を悪く言うつもりはありません。
これは単純な話で、文学作品の表現における機微を読み取れる感受性が、僕にはないのです。
それはおそらく、いつからかプラグマティズム(功利主義)的な考えに染まってしまったのが原因だと分析しています。
ようするに、効果がわかりやすかったり即効性がある情報を追求するあまり、文学や芸術をじっくり時間をかけて楽しめる体質ではなくなってしまったのです。
文学作品を味わう美的感覚を持ち合わせていない以上、どれだけ文学作品を読んでも時間の浪費でしかありません。
だから、これからは見栄を張って本を選ぶのはやめようと思いました。
自分に嘘をついて本を読んでいると、そのうち読書が嫌いになってしまいそうだからです。
自分が本当に読みたいと思う本を読む。すごく当たり前のことなのに、ずっと僕ができなかったことです。
『老人と海』がそれに気づかせてくれたのだとしたら、今回の出会いは無駄ではなかったのかもしれません。